大阪地方裁判所 平成10年(ワ)2621号 判決 1999年3月19日
主文
一 被告は、原告らに対し、各一〇〇〇万円及びこれに対する平成一〇年四月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 原告らの請求
被告は、原告らに対し、各一二五〇万円及びこれに対する平成一〇年四月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、被告の従業員であった訴外乙野三郎(以下「三郎」という。)が、被告を退職した後死亡したところ、被告が締結していた三郎を被保険者とし被告を契約者兼受取人とする生命保険契約により、被告が五〇〇〇万円の死亡保険金を受け取ったため、三郎の相続人(両親)である原告らが、被告に対し、右保険金のうち二五〇〇万円(原告らそれぞれにつき各一二五〇万円)の支払を求めた事案である。
一 前提事実(当事者間に争いのない事実及び《証拠略》により容易に認められる事実)
1 三郎は、昭和六一年三月、管工事業を営む株式会社である被告に雇用され、平成三年四月ころ退職し、同年一〇月八日劇症肝炎によって死亡した。
2 被告は、平成二年八月一日、住友生命保険相互会社との間で、以下の内容の生命保険契約を締結した(以下「本件契約」という。)。なお、被告は、三郎の同意のもと、「生命保険契約付保に関する規定」(平成二年七月一八日付け。以下「本件付保規定」という。)に基づいて本件契約を締結しており、本件付保規定には、「この生命保険契約に基づき支払われる保険金の全部又はその相当部分は、退職金又は弔慰金の支払に充当するものとする。」旨の定めがある。
<1> 保険契約者兼保険金受取人 被告
<2> 被保険者 三郎
<3> 死亡保険金 五〇〇〇万円
<4> 満期(終期) 二〇二〇年七月三一日
3 被告は、原告らに対し、平成三年一一月ころ、弔慰金及び退職金として五〇〇万円を支払った。そして、その頃、原告らと被告との間で、被告が原告らに対し弔慰金及び退職金として五〇〇万円を支払い、原告らは、保険金に関連しての退職金等の問題については、以後いかなることがあろうとも一切異議を述べない旨の念書(以下「本件念書」という。)が作成された。
二 争点及び当事者の主張
1 被告は、本件契約に基づき受領した生命保険金(以下「本件保険金」という。)を、原告らに支払う義務があるか。
(一) 原告ら
(1) 本件契約の締結に当たっては、被告と三郎の間で、本件付保規定により、被告が受領する保険金の全部又は相当額を遺族である相続人らに対する死亡退職金又は弔慰金として支払う旨の合意(以下「本件合意」という。)が成立している。したがって、被告は、本件合意に基づき、原告らに対し、被告が受領した保険金の全部又は相当額を支払う義務がある。
なお、仮に右請求権が時効により消滅している場合には、被告は、本件契約の内容を原告らに秘匿することにより、原告らの本件合意に基づく請求権の行使を妨げ、その結果債権を時効消滅させたのであるから、右は不法行為を構成し、被告は、不法行為に基づく損害賠償として、原告らに対し、本件合意に基づき原告らが請求しうる金額と同額を支払う義務がある。
(2) 原告らに支払われるべき保険金の額は、原則としては、保険金全額から被告が負担した保険料及び既払いの五〇〇万円を控除した残額と解すべきであり、その額は、少なくとも二五〇〇万円を下回ることはない。
(二) 被告
(1) 本件契約は、従業員の死亡により、被告に多額の死亡退職金又は弔慰金を支払う義務が生じた場合等に備え、保険料を全額被告が負担して締結したものであり、本件付保規定にも、本件契約が、将来万一従業員が死亡したことにより当該従業員に対して死亡退職金又は弔慰金を支払う場合に備えて締結されるものであることが明記されている。したがって、被告が保険金の支払義務を負うのは、被告が死亡退職金又は弔慰金を支払う義務のある場合に限られると解すべきである。
ところが、三郎は、平成三年四月ころ、突然職場を無断で放棄し、退職したのであって、死亡時にはすでに被告の従業員でなくなっていたから、原告らに本件保険金を受領する権利はない。また、仮にそのようには解されないとしても、三郎の退職の実態は職場の無断放棄であって、懲戒解雇にも該当する場合であり、被告には、原告らに対し死亡退職金又は弔慰金を支払う義務はないというべきである。
したがって、被告は、原告らに対し、本件保険金を支払う義務はない。なお、仮に被告に本件保険金の支払義務があるとすると、従業員が被告を退職後他会社に就職して死亡した場合、当該従業員は被告からも他会社からも死亡退職金ないし弔慰金を取得できることとなり、かかる解釈が不当であることはいうまでもない。
(2) 仮に被告に本件保険金のうち相当額を支払う義務があるとしても、被告は、本件保険金の受領により、計二四五五万八七〇〇円の公租公課を負担しているから、少なくとも、右金額は控除されるべきである。
2 本件念書により、原告らは、被告に対する本件保険金の請求権を放棄したといえるか。
(一) 被告
原告らと被告は、協議の末、被告が原告らに対し本件保険金のうちから五〇〇万円を支払うことで合意し、本件念書を作成した。したがって、本件保険金に関しては右念書で和解が成立している。
なお、被告は、本件契約の内容を原告乙野五郎(以下「原告五郎」という。)に十分説明しており、同原告は、「五〇〇万円頂戴できれば十分です。」と喜んで本件念書を作成したのであり、本件念書作成について何らの暇疵もない。
(二) 原告ら
被告代表者は、原告五郎に対し、本件契約の内容を明らかにせず、保険金額も秘匿したまま、「実際に退職金があっても三〇万から五〇万くらいのもの。」「本来もらえる金ではないがもらっておいたら。」「今受け取らないと後になったら支払わないよ。」等と述べ、念書を作成しないと一銭ももらえなくなると考えた原告らの無知に乗じて本件念書を作成させたものである。
このような経緯に鑑みると、本件念書における「本件保険金に関連しての退職金等の問題については一切異議ない。」とする部分は、公序良俗あるいは信義則に反し無効である。
3 原告らの本件保険金の請求権が時効により消滅しているか。
(一) 被告
仮に、被告に本件保険金の支払義務があるとしても、その性質は退職金であり、平成三年四月から五年の経過により既に消滅時効が完成しているので、右時効を援用する。
(二) 原告ら
(1) 原告らは、民事上の無名契約である本件合意に基づき被告が受領した保険金のうち相当額の支払を求めているのであるから、労基法一一五条の適用はなく、その消滅時効期間は一〇年である。
(2) 仮に本件合意に係る請求権(以下「本件請求権」という。)が労基法一一五条の五年の消滅時効にかかるとしても、被告は、本訴提起に至るまで、本件契約の存在、保険金額及び付保規定の有無等について全く明らかにしていなかったのであり、原告らがそれ以前に本件合意に基づく請求をすることは不可能であった。
係る状況の下で被告が消滅時効を援用することは、信義則に反し、あるいは権利の濫用であって許されない。
第三 争点に対する当裁判所の判断
一 争点1について
1(一) 前記前提事実によれば、三郎と被告との間では、本件付保規定により、本件契約によって保険金が被告に支払われた場合には、その全部又はその相当部分を、三郎の遺族に対する死亡退職金又は弔慰金の支払に充てる旨の合意が成立したものと認められる(本件合意)。そして、被告代表者本人によれば、被告には従業員が死亡した際に死亡退職金や弔慰金を支払う旨の規定は存在しないことが認められるから、結局のところ、被告は、本件合意によって、三郎が死亡した場合には、被告が、三郎の遺族に対し、本件保険金を原資として死亡退職金又は弔慰金を支払う旨約したものとみるべきである。
したがって、被告は、本件合意に基づき、原告らに対し、本件保険金を原資として、死亡退職金又は弔慰金を支払う義務を負う。
(二) これに対し、被告は、本件合意は従業員の福利厚生を目的としたものであるから、三郎が退職した後に死亡した本件には適用がないとも主張する。しかしながら、被告が真に従業員の福利厚生を図る目的で本件契約を締結したのかどうか疑問であるが(被告代表者本人は、本件生命保険は労災でまかなえない部分を補うために加入したと供述するが、他方で、災害防止協力会の上乗せ保険に加入していたとの供述もしており、三郎に他の生命保険もかけていたのか、他の従業員にいかなる保険をかけていたのか等については明確な供述をせず、結局のところいかなる目的で本件契約に加入したのかは明らかでない。)、その点を措くとしても、仮に本件契約が従業員の福利厚生を目的としたものであるとすれば、三郎が退職した後は当然本件契約を解約すべきであるにもかかわらず、被告は、三郎の退職後も本件契約を解約することなく継続させたのであるから、本件合意が三郎の退職によって当然に効力を失うと解すべきではない。
また、被告は、三郎の退職の経緯に鑑みると、三郎は被告に対し退職金又は弔慰金の請求権を有しないとも主張する。この点についても、被告は、三郎が死亡することなく退職した場合には本件契約を解約することができたのにこれをしなかった以上、三郎の退職の経緯を根拠に本件合意に基づく支払を拒むことはできないと解すべきである。また、被告が主張する三郎の退職の経緯は、単に突然退職届も出さずに退職したというものに過ぎず、被告代表者本人によっても被告に何らかの損害が生じたというような事情は窺えないのであって、三郎の退職時の事情が本件合意に基づく金銭を被告に支払わせることが相当性を欠くほどの非違行為であるとはいえない。
2 次に、被告が支払うべき金額について検討する。前記のとおり、被告は、本件合意に基づき、原告らに対し、死亡退職金又は弔慰金を支払う義務を負うが、その金額については明確な定めがない。また、本件合意に至る経緯は本件全証拠によっても明らかではない。したがって、その具体的金額は、付保規定の趣旨目的、被告が受け取った保険金の額、被告が支払った保険料、税金その他の諸経費の額、三郎の在職年数等を総合的に勘案して決するほかないが、そもそも他人を被保険者とする生命保険は、保険が賭博的に悪用されたり他人の死亡を期待して保険事故を招来したりするおそれを内包するものであり、従業員の死亡によって使用者が大きな利得を得る結果となることは相当でないこと、付保規定は、かかる弊害を防止するために定められるもので、本件付保規定においても保険金の全部又は相当部分を支払うものと明記されていることに照らすと、原則としては、被告が受け取った保険金の額から被告が支出した費用の額を控除した金額を死亡退職金又は弔慰金の額と解すべきである。
右見地から検討すると、甲一によれば、被告が支払っていた保険料は、月額二万六〇一〇円であることが認められるから、被告は、平成二年八月から三郎が死亡する前月である平成三年九月までの間、少なくとも三六万四一四〇円の保険料を納付したことが推認される。また、乙一及び被告代表者本人によれば、本件保険金の取得に伴い、被告は、計算上合計二四五五万八七〇〇円の税金の納付義務があることが認められる。もっとも、被告代表者本人は、被告は当時赤字であったかもしれず、右税金を実際に納付したかどうかは記憶にない旨供述していることに照らすと、被告が現実に右税金を納付したものかは極めて疑わしいけれども、右税金の額は、原告らが取得することのできる保険金の額を定めるに当たり斟酌すべきである。そして、乙一によれば、被告が受け取った保険金の額は五〇〇四万〇一五四円であることが認められる。
これらの事情を考慮すると、被告が原告らに対し支払うべき死亡退職金又は弔慰金の額としては、二五〇〇万円が相当である。そして、この額は、三郎の勤続年数が五年程度であることからすれば、不相当に高額であることは否めないが、前述したような付保規定の趣旨及び他人の生命保険にみられる弊害、特に本件では既に従業員でない者の死亡によって被告が利得することを認める必要性は全く存しないこと等を考慮すると、やむを得ないものというべきである。
二 争点2について
1 <証拠略>によれば、本件念書作成に至る経緯に関し、次の事実が認められる。
(一) 被告代表者は、三郎が死亡したことを知り、原告五郎に対し、退職金の支払の手続をするために必要であるとして、死亡診断書や戸籍謄本等の取得への協力を要請した。
(二) 原告五郎は、原告乙野花子から、三郎が被告で生命保険に入っているはずだとの話を聞いていたことから、保険加入の有無について被告代表者に尋ねたところ、被告代表者は、生命保険に加入していることは認めたものの、その内容は上部との関係があるから言えない等と述べ、原告五郎に対し本件契約の内容を告知しなかった。そして、被告代表者は、原告五郎に対し、かえって、「五〇〇万円出す。本来もらえる金ではないが、もらっておいた方が良い。」「今署名しないと後になったら支払えない。」等と述べて、本件念書への署名を求めたため、原告五郎は、漠然と、保険金が仮に一五〇〇万円程度であれば、その三分の一を取得できることになるからやむを得ない等と考え、本件念書に署名した。
2 以上によれば、原告五郎は、その意思に基いて本件念書の作成に応じたものということができる。しかしながら、右のとおり、被告代表者は、原告五郎の求めにもかかわらず、本件契約の内容を明らかにせず、かえって、「五〇〇万円も本来もらえる金ではない。」などと虚偽の事実を述べて原告五郎を錯誤に陥らせて本件念書の作成に応じさせたものというべきであって、その方法は著しく相当性を欠き、被告が、かかる念書の記載を根拠に原告五郎がその余の保険金の請求を放棄したものと主張することは、信義則に反し許されないと解すべきである。
この点につき、被告は、保険金の額を含む本件契約の内容は原告五郎に説明したうえで本件念書を作成した旨主張し、被告代表者本人もこれに沿う供述をする。しかしながら、原告五郎本人はこれを否定し、その供述内容は具体的かつ自然であって信用できるものであるし、甲五によれば、原告らが、本件に先立ち申し立てた調停事件において、被告に対し本件契約の内容の開示を求めたのに対し、被告は、既に解決済みであるとしてこれを拒絶しているのであって、このような被告の態度は、仮に被告が本件念書作成に当たり本件契約の内容を原告らに告知していたとすれば不自然なものであり、結局被告代表者本人の供述は信用できないから、被告の主張は採用できない。
三 争点3について
原告らの被告に対する本件請求権は、労働契約とは別個独立した本件合意に基づく死亡退職金又は弔慰金の請求権であるところ、かかる請求権は労働基準法一一五条にいう賃金又は退職金の請求権には含まれないと解すべきである。
また、従業員を被保険者とする生命保険への加入及び本件合意は、これが企業における従業員の福利厚生の一環として制度的に運用されている場合は格別、原則として営業のためにするものとは解されず、特に本件のように従業員が退職した後については、従業員の福利厚生を目的とする余地はないのであるから、付属的商行為には該当しないというべきである。したがって、本件請求権の消滅時効期間は一〇年であり、被告の消滅時効の主張は理由がない。
四 結論
以上の次第であるから、被告は、原告らに対し、二五〇〇万円から既に支払った五〇〇万円を控除した二〇〇〇万円を支払う義務があるから、原告らの請求は、被告に対し、各一〇〇〇万円ずつの支払を求める限度で認容し、その余は棄却する。
(裁判官 谷口安史)